粉コンニャクの始祖 『中島藤右衛門』 ■「粉こん」発明の動機 こんにゃくの生玉は、「重い」「寒気に弱い」「腐りやすい」等の理由から、大量貯蔵が難しく、通年の需要に応えることができないと言う欠点がありました。 また、この地域には山間部が多く耕地が少なく、表土層が薄いという性質の土地でしたが、逆にその「欠点」にも見える土壌環境が、コンニャクの栽培には適していることがわかり、唯一の換金作物として栽培が指導推奨されました。 そんな中、畑に鍬で切られた生玉の薄い一片を目にした『中島藤右衛門』が、 「これを粉末にしてコンニャクを作れないものか?」 と閃き、試行錯誤の研究の末、安永5年(1776年)に[粉こんにゃく]を完成させました。 ■画期的な開発と販路 粉こんにゃくの開発当初は、生玉を薄く切り、乾燥(荒粉)にし、手挽き石臼で粉末にしていましたが、品質を高める為に水車を利用し、粉砕し「あおり」(粉に含まれる澱粉質を風に当てて除去する方法)を工夫して生産量が増えていきました。其の後、東海地域は羽州、奥は南部・津軽、海を渡り松前(北海道)まで、全国的に流通を始め、水戸藩はコンニャクを藩の特産品として増産を重ねていきました。 ■水戸藩の台所 江戸時代、各藩いづれも財政のやりくりに困り、領地の産物を売り広めようとしていました。水戸藩では久慈郡保内郷で生産されるこんにゃくの栽培を奨励し、原料を藩の専売とし、江戸には専売所を、大阪には特約商人を置き、大いに水戸産こんにゃくの知名度を高めました。武士の商法とはいえ、品質を落とす者には入牢を申し付けるほどの徹底した品質管理だったそうです。 万延元年(1860年)3月、桜田門外にて大老・井伊直弼を襲った水戸藩士の軍資金は、こんにゃくを扱った商人たちの貢いだものと言われています。 これより先に、保内郷の中島藤右衛門がこんにゃく芋を乾燥して粉にすることを考案し、 そのために水戸のこんにゃくは各地に売り出され、名声を高めるとともに、生芋の製粉化による貯蔵・輸送が可能となり、今日のこんにゃく産業の「礎」を築いたのです。 このように藩として奨励し、産業化を計ったのは水戸藩であり、明治以降には各県においてそれぞれ奨励指導等を行い、現在に至りました。 |